去年の10月4日に満百歳を迎えられた聖路加国際病院の院長をされている、日野原重明先生の書かれた本で、忘れられないものがある。あれは、「死をどう生きたか」という本だった。30年ほど前のもので、先生の45年余にわたる内科の主治医として死をみとった人たちは六百人を越えるという経験の中でとくに心に残るという人々のことを書いたものだった。医師となって、初めての担当医としての患者であった。それは16歳の少女で、貧困な家庭に育ち、小学校を出るとすぐに紡績工場で働いていて病気になった。昭和12年のことである。結核性の様々な症状が出ていても、当時としては積極的な治療法がなく、麻薬によって痛みや苦しみを軽減させることしかなかった。
母親は娘と同じ所に勤めており、日曜日にしか見舞いにくることがでてきなかった。ある日曜日の朝、彼女の様態は、ひどく悪化し個室の重病室に移された。日野原医師は、「今日は日曜日だから、お母さんが午後からこられるから頑張りなさいよ。」と激励するしかなかった。彼女の苦しみを止めるには、モルヒネしかなく、いつもの二倍の量を注射した。するとまもなく、苦しみが少し軽くなったようで、こう言った。「先生、どうも長いあいだお世話になりました。日曜日にも先生に来ていただいてすみません。でも、今日は、すっかりくたびれてしまいました。私は、もうこれで死んでゆくような気がします。お母さんには会えないと思います。先生、お母さんには心配のかけつづけで、申し訳なく思っていますので、先生からお母さんによろしく伝えてください。」少女は、熱心な仏教信者で手を合わせて目を閉じた。日野原医師は、「あなたの病気はまたよくなりますよ。死んでゆくなんてことはないから元気を出しなさい。」そのとたん、彼女は急変し呼吸が止まった。大急ぎでカンフル剤を注射し「しっかりしなさい。死ぬなんてことはない。もうすぐお母さんが見えるから。」と耳元で叫んだ。しかし、聴診器に心音は聞こえず、日野原医師にとって死との対決の最初の経験となった。後々になって日野原医師は、なぜ私は「安心して成仏しなさい。」と言わなかったのか?「お母さんには、あなたの気持ちを充分に伝えてあげますよ。」となぜ言えなかったのか?そして私は脈をみるよりも、どうしてもっと彼女の手を握ってあげなかったのか?と・・・
私自身の始めての経験は、母のときだった。「もうええよ。なんも心配いらん。安心して成仏したらええ。よく頑張ったね。あとのことは任せておいて。ほんとによく頑張った。」それは、母が癌に冒されもう意識もなくなっていたときだった。耳元で般若心経をゆっくりとお唱えした。何日も前から眼は半開きで乾燥していて、閉じることができないような状態で、もう何も見ることができないと思われた。しかし、その眼から涙が溢れてきた。母は、その翌日亡くなった。その瞬間、眼は自分の力で閉じたのだ。植物人間のような状態が続き、脳にまで癌は、進んでいた。しかし、母はすべてを理解してい たのだ。確かに生きていた。今でもはっきりと覚えている。このことがあってから、私は「安心して」と心より言えるようになったのだ。 |