【第百五十八話】 死にとうない!

法寿院 水崎圭二

 九州の博多に仙豪`梵(せ んがいぎぼん・1750〜1837)という禅僧がおられた。東の白隠、西の仙高ニいうほど有名な和尚じゃった。何より有名なのが数多くの飄逸な禅画であ る。たとえば、大きな円(禅でいう円相)を描いて脇に「これをくふて茶をのめ」と賛したものがある。画餅(絵に描いた餅)という言葉があるが、喰えない大 きな饅頭を描いて、これを喰うてお茶を一服とは、なんとも人を喰った話である。

 その仙腰a尚の臨終の際の話じゃ。仙高W8歳、いよいよ臨終というとき、禅の僧侶は、弟子達に遺言を残すんじゃ。それを遺げ(ゆいげ)というんじゃが、この仙腰a尚、弟子達にさらさらさらとこう書き残した。「死にとうない 死にとうない」と。これにびっくり仰天した弟子達は、どう かありがたい本当の末期の一句をお願いしますと。すると仙高ヘ、それならこうじゃとそこへ一言付け加えた。「本当に 本当に 死にとうない 死にとうな い」弟子達は驚いたが、いかにも剽軽な句をたくさん残した仙腰a尚らしい。これをどう考えるかは、人それぞれじゃ。

 人は、どのように「終活」 を迎えるのか?歳を重ねてゆき、様々なことを考えるようになったら死ぬということに無関心ではいられない。えらいお坊さんがそんなことを言うなんてと笑い 話のように思うのだろうが、いざ本当に死に直面したら誰しも「死にとうない」と思うのではないだろうか。ちなみにこの話、一休さんにも同様の逸話があるよ うじゃ。

 終活とは、この世からの旅立ちの準備じゃな。立つ鳥跡を濁さずというてな、この世でお世話になりました、ありがとうという気持ちできれいにしておくことが大 切じゃ。自分自身のことは自分で整理することがよかろう。財産や持ち物は無いようでいざ片付けようとするとあれっこんなにあったかと思うほど、あるもん じゃ。また、別れに際しては葬儀はこうしてほしいとか、死に関しては、過剰な延命措置はいやだとか、自然にまかせての尊厳死を希望するなどといったことを 思えば、まさに人の一生の整理整頓、考えればきりがない。じゃが、それも新たな旅立ちの楽しみじゃと思えばええんじゃ。

 人生は、旅じゃ。水戸の黄門様の旅物語は主題歌の通り「じ〜んせい らくありゃ く〜もあるさ〜」楽しいことも苦しいこともすべては過ぎ去って行く旅の途中 の出来事じゃ。倉庫にほうりこまれた三輪車や机を取り出して古ぼけたほこりだらけの品物は、二度と使われることはないじゃろう。しかし、物は朽ちてもそれ を使っていた記憶は決して古ぼけたりしない。父母の思い出とともに鮮やかにきれいに残っている。胸に秘めた想い出は、大切でなつかしく、まだまだこの旅を 続けたいと思うんじゃ。これが、死にとうないということじゃろうて。

 いつの日か、自分自身の旅が終わる時もやっぱりつぶやくんじゃろうな・・・「死にとうない」と。「いつお迎えがきてもいい」そんな玲瓏透徹(れいろうとうてつ)な気持ちに到達するには、この旅はまだまだ長そうじゃ・・・