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| Nさんのこと
管理者 相原あや子 |
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10月15日はNさんの83回目の誕生日でした。お祝いの席でNさんは次のように挨拶されました。
「こがいなことしてもろたんは生まれて初めてです。私のために大勢の人に集まってもらってうれしいです。私も皆さんに迷惑をかけないように一生懸命やっていくので、これからもよろしくお願いします。」
うれし涙を浮かべての言葉に、入居者の皆さんもスタッフも涙・涙・涙・・・。Nさんの口からこのような前向きな言葉を聞くことができ、スタッフ一同感慨無量です。
Nさんは愛媛県の南予にある海と山に囲まれた静かな田舎町で生まれ育ちました。結婚後もその町を離れることなく、平成14年1月ご主人が亡くなられるまでその町で暮らしておられました。平成12年、Nさんの物忘れが多くなったことにご家族が気づき、病院受診の結果、痴呆症とうつ病の診断を受けました。それでも内服薬とご主人の支えで今までと変わらない生活を続けておられました。ところが平成14年1月にご主人が急死され、Nさんの生活は一変しました。一人暮らしは困難になっていたため、急遽松山にお住まいの息子さん拓に転居されたのです。しかし、息子さんご夫婦は昼間お仕事でNさん一人となるため、ルンビニーに入居されることになりました。平成14年3月4日のことでした。
正常な心理状態にある者でも、夫の死、長年住み慣れた地を離れること、知らない環境や見ず知らずの人たちとの生活を受容することは、並大抵のことではありません。増してや、Nさんにとって、これほどの状況変化を受容する心のゆとりは皆無に等しかったのでしょう。笑顔はほとんど見られず、「田舎に帰りたい」、「息子はいつ来るん?」、「何が何やらわけが分からん」など、不安や混乱の心の表出が続きます。ご家族と相談して、昔から得意だった縫い物や編物を用意してみたりもしましたが、ほとんど手付かずのままでした。入居当時仲の良かった他の入居者の方との関係が途中から悪化し、内向的なNさんはこのこともじっと心に溜めておられたようでした。別のユニットに空き室ができたのを機会に、そちらにお部屋を変えました。そのことによりいい方向への変化を期待していましたが、結果はNOでした。
どうしたらここがNさんにとって、心が落ち着いて暮らせる場になるのか、スタッフ一同試行錯誤の日々が続きます。介護の力で何とか・・・との思いに反して、Nさんの状態は悪化していきます。最初受診した病院から、往診してくださる心療内科の先生に代わり、内服薬での調整を試みていただきましたが、改善しません。往診での治療は限界とのことで、私達スタッフ、先の見えない不安の中で、入院治療に望みをかけました。大変お母さん想いのご家族のこの時の不安は、計り知れないものであったとお察しします。
入院治療に数ヶ月かかるとのことで、ルンビニーを平成15年5月20日一旦退居されました。白い壁にベッドという殺風景な病院環境に、私自身の不安もぬぐい切れませんでしが、病院にお訪ねするたび、表情が良くなっていくNさんに、「ああ、これで良かったんだ」と確信が持てるようになりました。また、いつ、どの病院職員の方にNさんの様子をお聞きしても適切な説明をしていただけ、安心して帰ることができました。数ヶ月かかって先生がNさんに適した内服薬の調整をしてくださり、退院の目途がついてきました。丁度その頃、ルンビニーに空き室ができ、再入居の運びとなったのです。
「こんにちは。また、よろしくお願いします。」
8月9日、再びルンビニーの家族となられました。しばらくは「息子はいつ来るん?」、「いつ迎えに来るん?」、「息子に電話してや」など不安の表出はありましたが、スタッフが意識的に「いつ来るか聞いてないよ」等、あっさりとした関わり方で統一すると、それ以上の不安には発展しませんでした。次第に不安な言動もなくなり、9月14日には「私、田舎に帰っても一人やし、つまらんし、もうここがええわい。みんな居るし、楽しいし。」 !!!やっとルンビニーがNさんいとって心の落ち着く場所になったのです。ご本人にとっても、ご家族にとっても、私達にとっても長い長い道のりでした。
今日もせっせと青竹踏みをしているNさんです。「足腰を鍛えて若返らなにゃいけん。嫁にもろてくれる人がおるかもしれんけん。」こんな冗談もでて、みんなと楽しくゆったり暮らしている毎日です。
以下にNさんのご家族からの手記を紹介させていただきます。 |
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今母は、ルンビニーで、温かくお世話してくださるスタッフや、いろいろな面でかかわって下さる多くの人たちに支えられて、穏やかな日々を送っております。散歩やおしゃべりをしたり、時には買い物に行ったり。「ここはええとこよ。みんないい人ばかり。」と楽しそうに話す母を見て、私達家族の者も心安らぐ思いです。
生まれ育った海辺の町で、父と暮らしていた母のことを「何かおかしい」と感じ始めてからもう少しで4年になります。最初の2年は、新しい薬と周りの人たちに助けられて、父と二人で暮らすことが出来ました。それも限界になってきた時、父が死亡し、松山への転居も重なって、症状は一気に進みました。ルンビニーでお世話になるようになっても混乱は続き、母も私達もつらい日々でした。そして、今年5月、そのひどい状態の改善と薬の調整の目的で、S病院に入院したのです。
そこで、ご自身、私達と同じ立場におられたO先生にお会いしました。「家の母と誕生日も1日違うだけ、生活環境もよく似ている。他人ごととは思えんのですよ。きっと良い方法があるはず。探っていきましょう。」と言って頂き、どん底状態にあった私達も、「何とかなるかもしれない」と少し希望を持つことが出来ました。それから1ヶ月過ぎ、母に表情が戻ってきました。2ヶ月たつ頃には、どんどん明るい顔つきになり、看護師さんに「やっと長いトンネルを抜け出せたね。」と言われるまでになりました。そして8月、ルンビニーから空き室ができたと連絡して頂き、再入居することが出来たのです。
それからの母は、別人のようになり、穏やかに周りの人たちに感謝して、毎日を送れるようになりました。たわいもないことで笑い声が出たり、「ありがとう。」という言葉がよく出るようになりました。元気だった頃の母に戻ったようで、とてもうれしく思っています。
思いがけない母の発症から、今の状態に落ち着くまで、試行錯誤の日々でした。私達は母の不安な気持ちを思いやることが出来ず、表に現れてくる症状にのみ気を取られて、とまどい、途方に暮れていました。そんな時、周りの多くの人たちが温かい手をさしのべてくださいました。父母が暮らしていた町の人々、ルン二ビーの方々、近隣の人たち、まだまだ多くの人たちに助けられて今日があることに、感謝せずにはおられません。
これからどうなっていくのか、不安はありますが、母の気持ちに寄り添って、母が安心して気持ちよく暮らせるよう、見守っていきたいと思っております。 |
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