平成15年1月29日、グループホームルンビニーで、入居者のS.Kさんを仏教的看取りである臨終行儀で看取った。3人の僧侶の読経の中、薬師如来とS.Kさんは五色の紐で固く結ばれ、ご家族、入居者仲間、ホームスタッフたちに見送られて、静かに浄土へと導かれて行った。
S.Kさんの臨終行儀を行うに当たって、「往生要集」や関連文献を学び、この素晴らしい著作を著し、儀礼を実践した恵心僧都源信が修行し、著作に励んだ比叡山延暦寺・横川と三千院を是非訪ねたいと久々考えていた。
平成19年9月23日、午前中に仕事を終え、午後の飛行機で松山空港を発ち、伊丹空港からリムジンバスを乗り継ぎ、京都駅から車で約40分、宿坊「延暦寺会館」についたのはとっぷりと日も暮れたころであった。十畳ほどの、立派なバス、トイレも付いた綺麗な和室で、四国遍路などで宿泊した宿坊のイメージとはかなりかけ離れた立派な部屋である。早速2階の大浴場で汗を流し、食堂で、長い歴史の中で工夫を重ねた伝統の、自然の味を生かした精進料理の夕食をいただく。この宿坊では座禅や写経なども体験できる。
翌朝、根本中堂での朝のお勤めに参加した。宿坊からゆるやかな坂道を5分も歩くと根本中堂、40人余りの参拝者たちが、中陣に座って合掌している。午前6時30分ひっそりと静まりかえった内陣の谷間から、読経の声が響き渡ってくる。中陣から内陣を拝むと、参拝者と同じ目線にある薬師如来がやさしく微笑んでいる。その前には、開創以来燃え続けているという「不滅の法灯」が1200年の時を越えて輝いている。
比叡山延暦寺は、東塔、西塔、横川の3地域からなる。国宝根本中塔を中心堂宇とする東塔は、延暦寺の心臓部で、大講堂、戒檀院、文殊桜、阿弥陀堂など重要な堂塔が数多く集まっている。延暦7年、最澄は比叡山にこもり、小さな草庵を結んで、一乗止観院と名づけ、法灯をかかげた。そのお堂が発展したものが根本中堂である。
最澄が大乗仏教の種を撒き、源信、親鸞、道元、日蓮など多くの高僧、名僧を輩出した比叡山延暦寺は、わが国の精神文化にも大きな影響を与えてきた。
朝の食事を済ますと、観光タクシーに乗って横川に向かった。
杉木立が静寂を誘う道の15分ほどのドライブで、横川に入る。横川は比叡山の北端に位置し、日常の喧騒から離れ、争いごとや俗事から離れた、学問、研究するには申し分のない場所である。
あざやかな朱色の横川中堂につく。横川には横川中堂を中心に、四季講堂、恵心堂、根本如法堂などの堂宇と天台僧侶の基本的修行の場である行院などがある。鮮やかな朱色の舞台作りの横川中堂は、昭和17年の雷火で焼失したが、昭和46年、伝教大師1150年大遠忌を記念して復元され、現在は新西国観音霊場第18番の札所にもなっていて、堂の周りにはミニ西国観音霊場として、33の石仏がある。
四季講堂から南に100メートルほど林道を下ると、源信ゆかりの恵心堂がたたずんでいる。「往生要集」を著し浄土教の素地をつくった恵心僧都源信が、はじめて念仏三昧を修したお堂で、「念仏発祥の地」という石碑がある。
堂の入り口には「南無阿弥陀仏」と刻まれた石柱が立ち、側面には恵心僧都源信の命日が刻まれている。
恵心堂は、華やかでもなく、威圧感もない。東塔と違って、観光客や訪れる人はほとんどなく、ひっそりとしたお堂で、じっと眺めていると、心が洗われ、和んでくる。
「往生要集」は、仏典の中から極楽に往生する引用文を集めて編纂したもので、地獄の姿、浄土を求める人々の姿をえがき、臨終の心得を解説し、ひたすら念仏往生を説いている。権力者ばかりでなく、女性たち、世捨て人、貧しい人など、誰でも仏になれると説き、救いの道をさししめした。さらに源信は、死の間際に念仏をすすめ、苦しみと恐怖から救い出し、往生をとけさせる組織を作ったのである。そして、念仏することによって、私たちは極楽世界に往き生まれることができると説くのです。
「往生要集」は、本邦浄土教の基礎を確立した金字塔的著作であり、この書ほど後世の思想史に大きな影響を及ぼしたものは他にないのではないだろうか。
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